JICAそして東京五輪へ
世界に目を向ければ、活躍の場は一層広がる
山田 将希さん
理学療法士
現:高度理学療法学科 2012年卒業
流されない意志の強さが際立つ山田さん
行動を起こすことで新しい世界がひらけることを教えてくれる
―東京オリンピック・パラリンピックで「エクアドル代表選手団」のメディカルスタッフをお務めになりました。その経緯を教えてください。
勤務先だった病院の先輩が、リオ大会にスタッフとして参加されました。「五輪にはそこでしか見られないものがある」という先輩の言葉が強く印象に残り、関心を持ったのが最初です。しかし、すでに東京大会の陣容はほぼ固まっていた段階で、キャリア的にも自分の入る余地はありませんでした。選手村のポリクリニック(総合診療所)のボランティアも応募資格に合致しませんでした。それでも諦めずに方法を探っていたところ、海外、とりわけ開発途上国なら可能性があるという考えに至りました。そこで、JICA青年海外協力隊に参加する形でエクアドルに渡航し、活動を始めていきました。
―JICAの活動内容と、どのように五輪に関わったのかを教えてください。
JICAの業務としては、現地の病院への技術移転、勉強会の開催などに従事しました。
並行して個人的にスポーツ活動に携わり、最初は県レベル、そこから南米大会、世界大会への帯同とステップアップして実績を残しました。しかし、コロナ禍で帰国を余儀なくされ、JICAの任期も終了。その時点では延期か中止かわからない状況でしたが、開催を信じて渡航費を稼ぐとともに、スペイン語学習に取り組んでいました。その後、開催が決まりそうになったタイミングで、個人で再渡航。契約を結ぶことができ、念願のIDカードを受け取ったというのが五輪参加までの経緯です。
人脈も語学力もない中でのスタート。周りからは不安材料ばかりを指摘されましたが、僕には不安を上回るものがありました。
―五輪での役割は?
試合前のコンディショニング、試合後のリカバリーなどをサポートしていました。競技は様々で、陸上、重量挙げ、柔道など、日ごとの組み合わせに応じて帯同するほか、日本語とスペイン語の通訳も大切な役割でした。
結果は国として四半世紀ぶりのメダル獲得となり、メダル数も過去最大の6つ(オリ金2、銀1/パラ金1、銅2)。女性選手の初メダルもありました。結果が出て良かったし「きみのお陰だよ」という言葉もいただきました。
―コロナ禍での大会でした。
陽性になると出場できなくなりますので、選手にはエクアドルと日本の感染対策の違いを説明するなどして注意を促していました。それでも入国検査が厳密に実施され、選手村では毎日PCR検査が施されていましたので、全体としては安心して競技に打ち込める環境になっていたと思います。
―「そこでしか見られないもの」とは何でしたか。
国を代表する選手が集まってくる特別な場。言語化しにくく、この表現は結論ではないのですが、「ポジティブなエネルギーの集まり」だったことは体感できました。
外国のメンバーとして、自国開催の五輪スタッフを経験した人はほぼいないはず。自分は決して知識・技術に秀でた人間ではありませんが、行動を起こしたからこの経験ができました。日本で活躍するのも素晴らしいことですが、世界に目を向ければ、その場は一層広がるのだと、多くの方にお伝えしたいですね。
Profile
理学療法士
現:高度理学療法学科 2012年卒業
JICA青年海外協力隊に参加したのち、東京オリンピック・パラリンピックのエクアドル代表選手団のメディカルトレーナーとなる。